岩魚

ogata_toshi2006-05-04

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魚で、思い出したのですが。


子どもの頃、毎日のように近所の川に遊びに行ってました。
その川は子どもの足でも1分くらいの距離でした。
山もすぐ近くで、六甲山の登山地図の中に家があったので。家から歩いて山に行けてました。
って妙な言い方ですが、山って「歩く」ものですから。
でも、都会に住んでしまうと山に行くのには電車に乗ったり車で行くとか、そのような事が当たり前みたいに私自身思うように成ってしまったということだと思います。
海にはちょっと距離があったので自転車で行ってました。


川は、源が低山なので岩魚はいませんが、たいがいの川魚は居ました。
上流に滝壺があって、水は透明で周囲の木々が写り込んでグリーンで、そこに子ども達は飛び込む。私は恐がりなので別のルートからそろそろと水に入っていた。
その滝壺には魚がたくさんいた。ほんとにたくさんだ。


子ども達は、そこで魚も釣った。
大きくても20センチ無い魚です。
私は近所の駄菓子屋で買って貰った小さな針を使ってました。
だけど、私の父は、マスを釣る大きな針しか持っておらず、その先の方に餌を小さく付けて「これでいいんだ」と言って、釣っていました。実際に普通に釣れていました。私もやってみましたが、私には釣れませんでした。それに、父は、どこへ行ってもどこでも脈釣りしかしなかった。


滝壺の上流には、関西学院大学が岩登攀の練習に使っていた岩盤があった。
私は、そこを登るのは好きだった。もちろん直登みたいなんじゃ無いですが、岩を触る感じとか、スイスイ登るのとか好きだった。ほかの子どもは、ビビッてました。
「子どもは頭が重いから墜ちたら頭から墜ちるんだから、危ないことは止めなさい」と母親とかが言っていましたが、 今思い返すと、子どもは、身体が軽いという事がとてもスゴイ事だと思います。


岩盤をくり抜いた、子どもが、かがんでしか通れない水路もある。
コウモリの居る真っ暗な大きな洞穴もいくつもあった。


滝の下流には、橋があって、その橋から1分のところに私は住んでいて。
いつもその橋の下で数人で魚とりをしていた。
そしたら、同じ小学校の女の子たちが、下校時に橋の上から
「また、魚捕りしてんのん」って ワイワイ大声で言うんだ。


川は台風の時は氾濫して、学校が休みに成っても私は川を見に行った。
護岸がどんどん濁流に削られて行く。舗装道路が削られて道が寸断される。橋が流されそうになる。
私は、土砂降りの中、ドキドキしながら見入った。すごく怖かった。怖かったけど、ワクワクした。


近くの山には、大きな岩がゴロゴロしていて、その岩は、お城に成ったり砦になったり、ある岩は怪物や戦車になったりした。いくつかの同じ岩が、いろんな役割をしていた。そのときどきの私たちの遊びの物語に応じて岩や木々は「何か」に成っていた。
私たちは、風呂敷を頭巾にしたりマントにして、枝を刀にして、野山を駆け回っていました。
小学生低学年当時、テレビの「忍者部隊月光」というのが新しくて、私たちは忍者走りをしながら森を走っていた。段ボールを尻にひいて草の急斜面を滑った、私はこれも怖かった、斜面の先が絶壁なのだ。登るのはいいけど、墜ちるのはイヤだった。野や森の中にすみかをつくった。これは、地上型と土を掘って屋根を付けるタイプがあった。地上型も木漏れ日が美しかったが、土の中は、ひんやりとして気持ちよかった。土に顔を付けるともっと気持ちが良かった。爪の間に溜まった土が、三日月型で好きだった。丁寧に取って眺めた。上手く爪からとれたときは嬉しかった。空豆の頭にくっついてるみたいな。


東京オリンピックがあって、鉄腕アトムの人間がやってるのが放送されていたころ。
魚やザリガニをつかまえる子どもや カブトムシやらクワガタをつかまえる 水晶をとる 滝壺に果敢に飛び込む すみか適地を見つけ建設する…そういうヤツらが ヒーローだった。
勉強ができるとか、喧嘩が強いとか、スポーツ万能とか、男前とか…そういったヤツらを圧倒していた。ダントツにかっこよかった。
魚は、いくらとってもタダだし。
どんな遊びもタダだった。
物語や風景は私たちがつくった。
なにもかも、日常のあたりまえのことでした。
「探検行かへん?」っていうのが、遊びの誘いだったりしました。近所の森や山を歩くだけなのですが。で、粘土を掘って団子を作る、とか。粘土層の発見は、子どもにとって貴重でした。


ゲームソフトも巨大遊園地も無い時代の話。


その川は、やがて毒流しがあって、ウナギや大きなフナや、ほんとに宝物のような魚たちが白いお腹を見せて積み重なって死にました。すごい数です。この川にこんなにたくさんの魚が居たのか、と思ったほどでした。毒流しは一回では無くて徹底して、繰り返されました。ウナギや大きなフナなんか、私たち子どもには、めったに獲れない川の王様です。王者です。私は、びっくりしたしとても悲しくて。友だちたちと話してもなにもだれもわからない。大人のだれかが何かをしたってことです。
今でも思い出すと腹が立つし悲しいです。


私が大人に成ってから行ってみると、さらに生態系がすっかり変わっていました。
昔、居た魚がまったく居ない。そして昔そこには居なかった別の魚に成ってる。
ずいぶん上流まで登って、ようやく小さいのを見つけました。


私に、ずっといろいろなことを教えてくれた川です。
ある意味ともだちです。
って言うか、
川の許容力ってすごいと思います。


今の学校の規則では、たぶん、危なくて「行っちゃいけないところ」だらけだった。
校則で禁止したら、私たちは何処へも行けなくなっただろうし、遊ぶすべを失っただろう。って言うか、私なんか、川遊びが無かったらだれともともだちになれなかったかもしれない。
それに、もしも禁止したら、どこもかしこも立ち入り禁止にしなければ成らず、大人は子どもを管理監視しきれなかったと思います。
魚のたくさんいる川や、クマゼミの居る木や、綺麗なイモリの居る田んぼとかが、通学路なんだから仕方がない。そこを通らないと学校へ行けないんだ。
学校と家を行き来してるだけで私の家は動物園みたいに成っていった。
でも、蜂を飼おうと思って蜂の大群に逆襲されて顔が変形したり。
誘惑と危険がいっぱいの楽しい道だ。


ちなみに、父は、子どものころ、北海道のさらに北にある島に住んでいたことがあって、白夜の中、オショロコマを釣るのに熱中してしまい、村から大がかりな捜索隊が出たそうです。本人は、のんきに釣りに没頭してた。
父は、そういう話を得意気にします。って言うか、懐かしんでいました。村人も親も大変だったと思います。板きれでスキーを作ったり、金属を下駄に打ち付けてスケートした話とかも自慢していました。



これも、彫刻とは関係の無い話だったかもしれません。



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食用蛙を調教していた同級生がいて、私は感動して彼をこころから尊敬していた。

当時、食用蛙のことを私らは「しょっくん」と呼んでいました。

「なぁ、しょっくん釣り行かへん?」って誘い合って行くわけです。
通学路の関西学院大学の某池とかに。
で、大学生のお兄さんやお姉さんに、とてもとても可愛がられました。


関学馬術部には、下校時によく行きました。
馬に乗せてもらったり。
そのときに馬術部のお姉さんが「馬って泣くんやで」って言ってました。


「馬の糞を踏むと足が速くなるぞ」と父親が言っていたので、私は通学時に馬の糞を見つけると大喜びで小躍りしながらバンバン踏みつけてました。
今思うと、変だったと思います。
でも懐かしいからいいです。



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