視力補正

創作が長丁場に成ってくると 世界観に対して目が慣れてくる
「慣れてくる」のは いいことのようだけど、世界に馴染みすぎると 観察力が低下するような気がする 
世界での滞在に心的なゆとりが出来て 好奇心が別のことに移行するのかも知れないけど
逆に 焦りみたいなことも視力(観察力)に影響するのかもしれないです



そういうときは現実に立ち戻って 視力補正をします
なぜならば、想像の世界や 夢の世界を 観察して創るのも やはり「視力」だと思うから 
自身が「今、此処」をちゃんと観ることができていれば、夢の世界でも 周囲の事態を把握できるはずだと思うから
想像の世界では 「わからないことはわからない」。意味不明の形や色に変換できそうもない意識がそこらじゅうにある。と言うか、妄想の風景は欠落部分だらけ で当然だと思う。だから、「わからないところはわからない」ように創ることが 重要なことに成ってくる。
しかし、そこで視力が低下してしまっていると わかってることとわかっていないことの判別がつきにくくなって わからないことを あたかも「わかっているかのように」勝手につくってしまう。そうすると 作品がチープになってしまう(狙わずにです)。そうなるとそれは想像の描写ではなくなってしまう。
【創作】とは『想像の描写』であると思う。
想いの中に「見えてることを そのままに」創ればいい。
だから、いくら興味深い初めての世界へ行って おもしろそうな想像をしていたとしても「視力」が鈍っていたのでは 表現できない


調整の為には
現実界の身近なものをつくってみる
なるべく ありきたりなもの、一般的に手に入るもの。知っているものが良い。そのほうが 自身の現時点での「まなざし」の性能を把握できるから
この方法は、自分では効果があると思っています。特に知らない事柄 観たことのないものを想像して創るときに威力を発揮します。たとえば象を想像でつくるとかもそうです。私はわからないところはつくれませんから。デフォルメから不自然な作為を排除してゆける。そうすることによって 実際現実とは違うけど 「まさに在る」ような作品をつくることが可能になってくるのだろうと 考えています。
だから現実描写のモチーフは奇抜なものではなく「ありきたり」「身近なもの」ということが大切。見慣れたものに新鮮な発見を見つけてゆくこと。
私は、練習はとても嫌いなので 楽しく興味津々で 本気本番としておこないます 好奇心と共に
一個の「おくら」に集中する。片口イワシは、今の調整にはベストだと感じたので買った(固体内の色バランスで全体感を現す為には適材)。ピーマンは前回の視力調整のときの作。


自己注意点としては
この作業は、視力維持の為の 現実視界への帰還のための 私自身の現時点での「方法論」でしかないということ
それは、制限があってかなり閉塞したものであるということ
そのことを ぼく自身が注意すること
つまり 目指しているのは、このような意味の「そっくりさん」的リアリティでは無い
だから こういう作業自体が「焦り」を生む可能性もある それでは本末転倒してしまう
『たしかな「まなざし」』は大切だとおもうけど 見える通りにつくれる必要は、創作(芸術)については どこにもない。
それよりも「想いの姿を みたままに創る」ことなのだと思います。
ここが、 ジャーナリストとの現実的な差異かも知れない


いったんベースキャンプ(宿)に戻って 心身落ち着くみたいな
今 完全に 創作の世界から意識の手を引いてしまうと 今度は世界にすら行けなくなる 今は、それは困る。だから 現実界のいわゆる「気晴らし」みたいな遊びに没入するのではなく 近隣近似のことで 調整をはかる
目が 慣れてきても
いま 焦ってはいけない
此処まで来たんだ  調整すれば 取り戻せる  
そこから また歩く


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昔の石垣も 言葉がある
家具や柱は 憶えている


石垣の積み石が ひとつ失われるたびに ひとは記憶を失う


憶えておこう
ただ 今の この目の感覚を記憶の網膜に焼き付けておこう
それでもぼくは忘れる
多くは忘れるけれども 古びない記憶が必ずある
それを体内で見極め 造形変換して作品としてアウトプットする
…できれば それができれば


だが 先を急いでは いけない
焦らないこと



今だ 今しかない
と 
焦るごとに 
石垣が またひとつポロリポロリと 崩れてゆく